写真を撮ることが容易になってから、私たちは以前とは比べものにならない量の記録を残すようになった。旅先の風景も日々の食事も、手元の端末に何千枚と蓄積されていく。ところが、それらを見返す機会は驚くほど少ない。記録が増えるほど、一枚一枚の重みは軽くなっていくようにも見える。 かつて写真は貴重なものだった。フィルムには枚数の限りがあり、現像にも手間と費用がかかった。だからこそ人は、何を撮るかを考え、シャッターを押す瞬間を選んだ。その選択の過程で、目の前の出来事は心の中で一度吟味され、意味づけられていた。記録する行為そのものが、記憶を形づくる働きを担っていたのである。 今日では、撮るかどうかを迷う必要はほとんどない。迷わないということは、吟味しないということでもある。写真に撮った対象は、撮らずにただ眺めた対象よりも細部を思い出しにくくなる場合があるという報告もある。記録を外部の装置に委ねたことで、人は安心して忘れることができるようになったのかもしれない。 もちろん、記録の容易さがもたらした恩恵を否定するつもりはない。失われるはずだった無数の瞬間が残され、後の世代が参照できる資料となる。問題は記録の量ではなく、記録と記憶の関係が変わったことに私たちが無自覚である点にある。 記録は過去をそのまま保存するが、記憶は過去を選び取り、現在の自分と結びつける。その意味で記憶とは、単なる保存ではなく、解釈の営みである。膨大な記録に囲まれた時代にあって、何を自分の記憶として引き受けるのか。その選択を放棄しないことが、記録の氾濫の中で自分の過去を持ち続けるための条件なのではないだろうか。
本文の主旨として最も適切なものはどれか。